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麻布
麻布(あざぶ)は、東京都港区を現在形成する5地区の1つで、旧麻布区とほぼ重なる。
麻布は山の手の台地と谷地で起伏に富んだ土地である。麻布という字が当てられるようになったのは江戸時代の元禄期からといわれる。
麻布は基本的に住宅地である。都心の一等地にあるため地価が高く、特に高台は富裕層が多く住んでいると言われている。低地側には幹線道路が通っており、幹線道路沿いには高層マンションが目立つ。
地理的には、麻布地域の縁を沿うように古川が流れており、この川によって山と谷、高台と低地が形成され、起伏に富んだ、坂道の多い地形である。
高台は閑静な住宅地となっているが、低地は下町風である。主な低地として、麻布十番や東麻布などがあり、どちらも古くから職人が移り住んだことで、下町らしい文化が形成されたと言われる。
近年まで鉄道でのアクセスが悪かったこともあり、ちょっと大人の隠れ家的なイメージがあったが、そうしたイメージを持たれる理由は、アクセスだけではなく、地形も関係していると思われる。暗闇坂とか狸穴といった地名は、まさにそうしたイメージを彷彿とさせる。
近年まで麻布地域内の鉄道駅は、六本木駅と南麻布の端にある広尾駅があるだけで、隣町に神谷町駅はあるものの、鉄道でのアクセスは良くなかった。ただし、かつては麻布全域を都電が通じていて、地域住民はさほど不自由さは感じていなかったという声もあるが、それが廃止されてからは、不便さが顕著となった。そのため、クルマでのみ来ることができる、イコール「不便な隠れ家」といったイメージを持たれてしまった。
しかし、2000年に大江戸線麻布十番駅、南北線麻布十番駅、大江戸線赤羽橋駅、南北線白金高輪駅の4駅が相次いで開業し、地下鉄で容易に訪れることができるようになった。
なお、現在は麻布と六本木は別の町のように思っている人が多いが、元来、六本木地区は麻布の一地区であり、麻布材木町や麻布龍土町といった町があった。そのため、現在でも麻布と六本木は行政区分などの点で地域的繋がりが強く、例えば、六本木地区にある麻布警察署や麻布図書館などは、その名残である。
歴史
麻布周辺には貝塚などが見られ縄文時代から人間が住んでいた。弥生時代には農業も行われていた。
712年には竹千代稲荷(現在の十番稲荷)が創建、824年には空海により麻布山善福寺が開基、939年(天長元年)には氷川神社が源経基により勧請される(1659年に現在の位置に移転)。
江戸時代初期までは農村や寺社の門前町であった。武家屋敷が建ち並ぶようになり、江戸の人口増加・拡大につれ都市化し代官支配から町方支配にうつる。馬場が1729年(享保14年)に芝から麻布に移転、十番馬場と呼ばれた。馬場移転に伴い馬市が立ち麻布十番は栄える。
1859年(安政6年)にアメリカ公使館が善福寺に置かれる。明治時代には古川が埋め立てられ鉄道馬車が通り工業化が進む。次第に台地の上は高級住宅街、低地には零細商工業といった分化がすすむ。大正時代には麻布十番を中心に花街や演芸場、映画館、デパートなどが造られ東京でも有数の盛り場となる。第二次世界大戦では空襲で大きな被害を受けるが、戦後に復興する。
1949年に麻布十番温泉が開湯する。
戦後、地下鉄日比谷線の開通計画に際し、銀座に顧客を取られることを恐れ、地下鉄駅の開設反対運動が起こり路線は変更された。しかしながら結果として六本木に客足が向かうことになり長く商業的な停滞が続いた。2000年、南北線の開通に伴い麻布十番駅が開設され、駅前商店街の奥には六本木ヒルズが完成するなど嘗ての殷賑を取り戻しつつある。現在の麻布は、東京を代表する住宅地の一つとして知られ、芸能人・著名人・財界人など多くの人が住んでいる。
うぐいすを 尋ね尋ねて 麻布かな ――芭蕉
麻布区
麻布区は港区の前身(東京市の行政区)の1つである。1878年に郡区町村編制法が施行され東京府域が15区6郡に区画分けされた際に発足した。その範囲は、今日「麻布」を名前に含む町すべて(麻布十番・麻布台・南麻布など8町)と六本木一丁目~六丁目の町域にほぼ一致する。
1947年に港区が発足し、麻布区は消滅。この際、旧麻布区域のすべての町名には「麻布」を冠する町名に変更がなされたため(一例、「六本木町」を「麻布六本木町」に変更)、住居表示の実施による町名町域統合が行われるまで麻布地区一帯には「麻布○○町」といった町名が41存在した。麻布永坂町に住む松山善三と麻布狸穴町に住む澤博士の両者の運動により、麻布永坂町と麻布狸穴町の地名だけが変わらず今日に残っている。
名称の経緯が似ている。→ 日本橋・神田地区
麻布 風俗