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草加
草加市(そうかし)は、埼玉県の市のひとつ。埼玉県の南東部に位置し、さいたま市・川口市・所沢市・川越市・越谷市に次いで県内で6番目に多い人口を擁する。国から特例市に指定されている。南側を東京都と接する。草加松原や草加煎餅で知られる。人口は約23万8千人。
江戸時代、日光街道で江戸から2つ目の宿場町として栄え、その周辺部は水田地帯で稲作が盛んであった。戦後当初は5万人にも満たなかったが、高度経済成長期における松原団地の造成や、東武伊勢崎線と営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線の相互直通運転開始により人口が爆発的に増大し、急激な都市化が進行した。それに伴い近年引っ越して来た人が多いので市民の平均年齢は比較的若く、子供の数も多い。 中心部は、都心まで約15kmという立地にありながら宿場町の面影を残す落ち着いた雰囲気の住宅地である。現在、松原団地の建て替え、再開発や草加宿を中心とした都市計画「今様草加宿」が進められている。2000年に彩の国中核都市に指定、2004年に特例市に移行。
市勢
* 面積:27.42km²
* 人口:239,578人
o 男性:122,478人
o 女性:117,100人
* 世帯数:101,241世帯
(2007年8月1日現在)
地理
* 関東平野のほぼ中央部に位置し、市の大部分は低地である。そして綾瀬川をはじめ多くの河川が存在するために、昔から大雨などによる洪水に悩まされ続けてきた。しかしながら東京外環自動車道とともに計画された綾瀬川放水路の完成など治水事業に取り組んだ結果、大規模洪水は激減した。
* 草加駅東側は丸井、イトーヨーカドーを核として構成する、再開発ビル群である、アコスや、西友といった大型商業施設がある一方、草加宿を中心とした商店街も広がり、江戸時代の面影を残す。駅西側は閑静な住宅街が広がり、ベッドタウンとしての一面を見せる。
* 旧日光街道沿いにある「草加松原」、そして「百代橋」「矢立橋」は草加のシンボル。かつて舟運で隆盛を極めた綾瀬川、札場河岸。現在は舟着き場の石段を復元した公園として整備され、五角形の望楼のほか、この地を訪れた松尾芭蕉の像や正岡子規の句碑なども建てられている。
* 河川: 綾瀬川、中川、古綾瀬川、伝右川、毛長川、辰井川、葛西用水路、八条用水、綾瀬川放水路
歴史
* 1212年頃 - 北条氏、鶴岡八幡宮に戦勝祈願のために谷古宇郷を寄進。
* 1630年 - 江戸幕府、正式に草加を伝馬宿として認める(草加は日光道中の宿場町になる)。
* 1889年4月1日 - 町村制が施行され、南草加村・北草加村・谷古宇村・宿篠葉村・吉笹原村・東立野村・原島村・与左衛門新田・弥惣右衛門新田・庄左衛門新田・太郎左衛門新田が合併し、北足立郡草加町が成立する。
* 1955年1月1日 - 草加町・谷塚町・新田村が合併し、草加町となる。
* 1955年8月1日 - 南埼玉郡川柳村を編入する。
* 1955年11月3日 - 旧川柳村の井原・上谷・麦塚が草加町から分離し、越谷町に編入される。
* 1956年9月28日 - 南埼玉郡八条村のうち、立野堀が編入される。
* 1957年5月1日 - 旧安行村の花栗・苗塚・北谷(一部)・原(一部)・小山(一部)が川口市から分離し、草加町に編入される。
* 1958年11月1日 - 市制施行により、草加市となる。これに合わせ、多くの町名変更が行われる。
* 彦右衛門新田 → 両新田西町
* 市右衛門新田 → 両新田東町
* 上谷塚 → 谷塚上町
* 中谷塚 → 谷塚仲町
* 下谷塚 → 谷塚町
* 東遊馬 → 遊馬町
* 原島 → 西町
* 南草加、東立野、庄左衛門新田(一部) → 氷川町
* 吉笹原 → 吉町
* 谷古宇 → 手代町、松江町、東町
* 宿篠葉 → 神明町へ編入
* 北草加、与左衛門新田、弥惣右衛門新田、太郎左衛門新田、庄左衛門新田(一部) → 栄町
* 立野堀 → 稲荷町
* 九左衛門新田 → 旭町
* 善兵衛新田 → 新善町
* 金右衛門新田 → 金明町
* 清右衛門新田 → 清門町
* 長右衛門新田 → 長栄町
* 新兵衛新田 → 新栄町
* 槐戸 → 八幡町
* 東中曽根 → 中根町
* 篠葉 → 弁天町
* 南青柳 → 青柳町
* 2004年4月1日 - 特例市へ移行。
* 1968年に、越谷市大字麦塚、大字千疋のそれぞれ極僅かな地域(麦塚:小字東、新田前耕地、蔵屋敷耕地、笹塚、山城耕地の各一部、千疋:小字九升田、庄権の各一部)を編入している。その後越谷市内では麦塚は川柳町、千疋は東町と町名変更され地名が消滅してしまっているが、草加市に編入された部分の一部は、かなり狭小で無人の地区であるが地名が受け継がれている。ちなみにこの千疋とは日本橋千疋屋の由来でもある。
経済
産業
総じて、第3次産業が中心である。しかしながら工業団地(草加・八潮工業団地)では製紙工場もあり第2次産業もある。
日本を代表する米菓であるせんべいが名産である。「草加せんべい」として全国に知られるブランドでもある。1932年に組合が組織されると組織的なPRが展開された。第二次世界大戦中は原料米の統制により一時衰退したが、戦後間もなく復興した。1970年ごろ最高の売り上げと全国的な知名度が普及し、市域に約120店舗を数えた。その後、他地区から同種の大量生産品が普及するようになり、売り上げが減少している。しかしながら、現在でも旧草加宿を中心に市域で約60店舗がある。手作り感の強い、醤油味がベースの丸い素朴な米菓である。草加市は埼玉県であるが東京みやげと扱われることも多く、同様なものとして千葉県にある東京ディズニーランドのみやげ物がある。
幕末から晒(さらし)業や浴衣(ゆかた)染めが市域南部を中心に栄えていた。浴衣染めは、かつては長板中型が行われていたが、大正期に導入された注染が主流となった。1960年頃には出荷額も最高に達したが、その後水質汚染などから規模を小さくしている。
1935年ごろから、三河島付近から皮革業者が広い土地と豊富な水資源を求めて市域中央部に進出し、それとともに同業者が集積してきた。第二次世界大戦中は一時衰退したが、朝鮮戦争を契機になめし業を中心に発展した。1970年ごろから水質・悪臭汚染でなめし業は縮小したが、製靴や鞄製造など皮革加工業が市域に広く点在する。
1958年の市制施行ごろから、市域に工場進出が目立つようになった。1963年から埼玉県が造成した草加工業団地の完成と、引き続き造成が行われた草加八潮工業団地の完成(1967年)により、60社余りの企業が進出した。また中小企業が市域に広く点在しているのも特長といえる。
かつては全市的に稲作が盛んであったが、近年は宅地化の波に押されて市域北東部の柿木町・青柳付近をのぞき、急激に耕地面積を小さくしている。
市域北部を中心にはすやくわいも収穫され、またキクを中心に花の栽培が行われるが、第1次産業は草加市においてはかなり少数で、専業農家はごく少数になる。
本社を置く企業
* 上州屋
* 天田印刷加工
* 渡辺教具製作所(地球儀製作)
* リベレステ(不動産)
事業所を置く企業
* 関東化学 草加工場、中央研究所
* 日本製紙クレシア 東京工場
o 日本大昭和板紙関東 草加工場
* 理研ビタミン 草加工場
* ダイキン工業 東京支社 草加事業所
* SMC株式会社(旧焼結金属工業) 草加工場
* ひよ子 東京工場 - 福岡県の銘菓の東日本に於いての製造拠点。東京土産としても有名。
* 日立建機 東日本事業部
* 光村印刷
* ミドリ安全工業
* 福山通運 埼玉ターミナル
創業地が草加市の企業
*ほっかほっか亭
文化
* 草加市民憲章(昭和63年11月1日 告示第235号)
わたくしたち草加市民は、綾瀬の流れと松原をシンボルとして、おおきな夢をはぐくんできました。 人の心をたいせつにし、自然をいかした住みよいふるさとをめざして、ここに憲章をさだめます。 わたくしたちは、
* 1 平和を愛し、文化的で、ゆたかなまちをつくります。
* 1 きまりを守り、安全で、せいけつなまちをつくります。
* 1 健康に努め、親切で、さわやかなまちをつくります。
* 草加市歌「想い出はいつも」
* 1988年制定。
* 相撲
相撲の町として知られ、草加市青少年相撲振興会の寄贈などにより、市内のほぼ全ての小学校に土俵が設置されている。また、追手風部屋が市内に部屋を構えている。(尾車部屋も設立当初は草加市に部屋を構えていた)
* ハープ
かつて市内に上野学園大学短期大学部が立地していた関係で、ハープの町としても知られる。「国際ハープフェスティバル」や、若手ハーピストの登竜門、「日本ハープコンクール」を毎年開催している。
草加 風俗