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小田原市
小田原市(おだわらし)は、神奈川県西部の市である。国から特例市に指定されている。
戦国時代には後北条氏の城下町として盛えた。 江戸時代には小田原藩の城下町、東海道小田原宿の宿場町として盛えた。箱根峠より東側の宿場町として、現在も箱根観光の拠点都市である。 1876年4月17日までは、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島を範囲とする足柄県の県庁所在地でもあった。西湘地域の中心的な都市である。
小田原ちょうちんとかまぼこの特産地であり、小田原城には多くの観光客が訪れる。小田原城城址公園には象、猿など様々な動物たちが暮らしている。
一時期は東京のベッドタウン化したとも言われたが、長期不況であえなく人口動態が減少に転じた。一時は20万人を超えた人口も20万を割り込み、新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保に忙しい。しかしながら、駅周辺あるいはその郊外での住宅、都市開発も少しずつ進んでいる。
地理
神奈川県のほぼ南西端に位置し、酒匂川の流れる足柄平野を中心に、東は大磯丘陵の南西端である曽我丘陵と呼ばれる丘陵に、西は箱根に連なる火山の外輪山の跡である山地となっている。南は相模湾に面し、遠浅の海に小漁港が点在している。
沖合いには、関東大震災の震源地となった相模トラフが伸びている為、地震対策に力が入れられている。
気候は太平洋側気候の地域で、四季を通じて温暖であるが,冬場は海側から風が吹き込み寒い。
歴史
先史時代から文化の融合する地域でもあり、地勢的に箱根の山岳により、中京と関東の文化の接点でもある。これらのことは歴史的に小田原を語る上で欠かせない史実である。
古代
先史時代の小田原の中里遺跡は、縄文人と渡来人が共存共栄した数少ない遺跡(地域)として知られ、人口比率は縄文人が多かったと考えられているが、他の地域と違い、点々と存在した渡来人のみの小規模の集落ではなく、縄文人と共存した大集落であった。また、縄文文化と渡来文化の境界の東端であったとも考えられ、日本の文化人類学や考古学において貴重な資料を提供している。
古代の相模国足下郡(あしがらのしものこおり)の地である。古名を「こゆるぎ」といい、「小由留木」「淘陵」などの字が宛てられた。「小田原」という地名は、「小由留木」の草書体を読み間違えたものという説がある。 市内千代にあった千代廃寺は相模国国府とも足柄下郡郡衙の所在地といわれる。
中世
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が1030年ごろ秦野に移り住んで波多野氏を名乗った。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置されたと言う説もある。
平安時代の末期1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代
戦国時代には伊勢平氏流を称する北条早雲が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、その他関東八屋形に列せられた諸氏による当時の関東の統治体制を転覆した。なお、下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれた。
近世
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入府によって、小田原は歴史の表舞台から姿を消す。家康が関東を治めるようになった後は、藤原北家宇都宮氏流・大久保氏が小田原に入った。
また後北条氏が滅亡するまで、皮革業に独占的な権益を持ち、関東一円のある一定の人々を支配し勢力を誇った小田原太郎左衛門の本拠地があった。後北条氏が発給した判物が現存している。
江戸時代
江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が樹立され、小田原はその城下町となった。1686年以降は代々大久保氏の城下町となった。城下町・小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場として東海道五十三次中最大の規模を誇った。又、小田原郊外の栢山(かやま)は、農政家・二宮金次郎の生地として有名である。
近代
1871年8月29日の廃藩置県によって、小田原藩は小田原県となった。同年末の県合併により、相模川以西の旧相模国と旧伊豆国全域を管轄区域とする足柄県が設置され、県庁が小田原に置かれた。しかし1876年に足柄県は分割され、小田原を含む相模国部分は神奈川県に、伊豆国部分は静岡県となり、小田原は県庁所在地ではなくなった。神奈川県となった後に設置された支庁も、間もなく廃止されたが、1878年の郡区町村編制法によって足柄下郡が編制されると、足柄下郡の郡役所が小田原に置かれた。
東海道本線は当初、小田原~熱海~沼津間の急鋭地帯を避けるために現在の御殿場線経路で敷設された。その後、小田原経由の路線として、小田原馬車鉄道という馬車鉄道が1888年に開通したのを皮切りに、熱海線(現在の東海道本線)・小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)なども開通した。
1923年9月1日の関東大震災では、直下が震源地だったためにはげしい被害を受けた。1934年の丹那トンネル開通で、東海道本線はやっと小田原市街地を通るようになった。この辺は吉村昭氏の小説「闇を裂く道」(文春文庫)に詳しい。1945年8月15日熊谷市とならび太平洋戦争最後の空襲を受ける。 戦後の1964年には東海道新幹線も開通し、東京・横浜への所要時間も大きく縮んだ。
小田原 風俗